カワマス(ブルックトラウト)北海道西別川に静かに潜む理由とは

2019年2月

昨年2018年秋に急に長崎へ赴く事となり、世界遺産登録にもなったグラバー園(Glover Garden)を観光する機会を与えられた。私も名前だけは知っている。幕末に来日し、日本の近代化に大きな影響を与えた英国商人トーマス・ブレーク・グラバーの邸宅。

トーマス・グラバー

幕末に死の商人と呼ばれていた人物でもあるが、日本のフライフィッシング黎明期にも活躍した人物でもある。

今回はこのトーマス・グラバー氏と息子である富三郎とが関わったであろう日本のカワマスにまつわる疑問と謎について、そして、私が日頃思いを寄せている道東に今尚生息しているカワマス(ブルックトラウト)について書いてみようと思う。

※ 無駄に長いので注意してください。

長崎グラバー園へ

急きょ出かける事になった九州旅行。予備知識もないままツアーガイドさんについて歩くグラバー園。そこは長崎港を一望できる素晴らしい景観に囲まれ、何処か懐かしささえ感じる心安らぐ空間だった。

グラバーガーデン

長崎港

グラバーガーデン

グラバー園(世界遺産 旧グラバー邸)

グラバー魚譜
グラバー魚譜(日本西部及び南部魚類図譜面)

そこで気になる一枚のパネルを発見する。この『グラバー魚譜』なるもの。なぜこのような物があるのか訝しがったがその理由を知る事になるのはしばらく後の事だった。

北海道のカワマスはどこから来たのか?

私のこのブログも随分無駄に長い期間運営していると思う。投稿数は少ないが意外に多くの方にご覧いただいている事を思うと本当に感慨深い。

あらためてこのブログを見つめ直した時に過去の投稿などは恥ずかしくなるくらい支離滅裂な物もあろうとは思うが、紛れもなく過去の私自身の産物なので、あえてそのまま残しておこうと思う。それはそれでまた面白い。

昨今、検索で拾われるキーワードの中で圧倒的に多いのが『カワマス』と『ブルックトラウト』この二つだ。呼び名が違うだけでこれはらは同じ魚種である。

なぜにこのキーワードでヒットするのか見当がつかないが、今回長崎のグラバー園に訪れた事も何かの縁と思い、すこしカワマスについて思う疑問点等を調べてみようと思う。

カワマスに思う疑問

私がカワマスに思う疑問とはこうだ。

元来カワマスは外来種。北海道では要注意外来生物に指定。何故に日本へ、誰がどうやって運んだのか?名前の由来や歴史背景。北海道の道東へはいつごろ?何の為に?そしてこれからどういう事が予想されるのか?

様々な書籍や参考文献を基に、あらためて釣り人目線でカワマス(ブルックトラウト)の過去から現在までの真の姿を出来る限り浮き彫りにしてみたいと思う。

間違いなく過去最長の投稿記事になると思われる。にわか釣り師の戯言、誇大妄想に興味のある方、少しでも共感していただける方がいればぜひ読んでみてもらいたい。

カワマス(ブルックトラウト)とはどんな魚か?

カワマス(ブルックトラウト)学名:Salvelinus fontinalis

カワマス(ブルックトラウト)学名:Salvelinus fontinalis

過去記事にも掲載させてもたった内容だが、カワマス(ブルック・トラウト)とは北米原産の外来種だ。ニジマス同様サケの稚魚を食害することで目の敵にされてきた。

生息域が湧水池に限られるため生息数が少なく、天然繁殖が繰り返されている貴重な魚種であるという理由からか、ニジマスほどの悪役にはならずにすんできた。

1902年はじめて国内での放流がなされたが当時は外来種との意識は無く、単にスポーツフィッシングとしての対象だったと言うことの方が色濃い。その後、食用として各地に広がっていったと言うのが定説となっている。

 

ブルックトラウト(カワマス)の生息域とはどんな場所か?

カワマスという魚は繁殖力は強いものの生息環境は極めて限定的だ。現在生息が確認されているのは栃木県日光市と北海道の空知川、西別川水系のごく一部のみとなっている。特に北海道では外来種に指定されている為、再放流は禁止されて当然の如く保護などの策は一切講じられていないと言うのが現状だ。

このカワマスの受精卵を国内に初めて北米からの輸入を行った人物こそが、この後書き記すトーマス・グラバーと言う人物だ。

トーマス・グラバーとはどんな人物か?

カワマスの話をする時に忘れてはいけない人物がいる。他でもないトーマス・ブレーク・グラバーなる人物だ。

『トーマス・ブレーク・グラバー(英: Thomas Blake Glover、1838年6月6日 - 1911年12月16日)はスコットランド出身の商人。武器商人として幕末の日本で活躍した。日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど日本の近代化に大きな役割を果たした。維新後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を行った。造船・採炭・製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献。国産ビールの育ての親。』

ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋

トーマス・ブレーク・グラバー

トーマス・ブレーク・グラバー

グラバー氏がフリーメイソンであったと言う説もあるが現代では誤解であったという認識が強い。しかし維新にかかわった欧米人の中にはフリーメイソンの存在も確認されている。さらにそのバックには世界を牛耳るロスチャイルド家がいたことは周知の事実であろう。

フリーメイソンとはどのような団体か?

謎の多い組織であるというイメージに異論は無いが、もとはヨーロッパの石工技術者集団の組織である。16世紀後半、その高い技術を門外不出で伝承していく役割を果たしてしたのが始めらしい。その後さまざまな人たちで構成されていく友愛団体へと変貌し、アメリカ大統領や著名な音楽家などもそのメンバーとなる。

現在そのメンバーは600万人を越えていると言われている。日本人で有名なところは高洲クリニックの高須克弥院長であろうか。

幕末期のグラバーという人物像

死の商人と呼ばれて

1864年から1867年の頃、攘夷と開国を巡り、幕府、朝廷、西南諸藩の思惑が複雑に絡み合う幕末の混沌に、グラバーは艦船や武器を扱う商売上の必然として首を突っ込む事となる。のちに『死の商人』と呼ばれる事となった時代の転換期。

 

坂本竜馬とグラバーの関係

倒幕のために坂本竜馬を裏で操っていたのがグラバーだ。と言うのが正しいかどうかは置いといて。戦の為の武器を融通していたのは間違いないと考えられる。それが商社マンとしてなのか、日本の将来を案じての行動だったのかは定かではない。

とにかく当時の日本は世界から思想や文化以外にも様々な分野で遅れていたことであろう。そこに目をつけた商社にたまたま属していたのがグラバーだったのではないか?と勝手に私は思っている。

幕末の武器商人・・・なんだかきな臭い感じがするが、そこを説明しだすと長くなるので割愛。

グラバー氏が何を考え、どのような思いで日本の近代化に貢献したのかは永遠の謎である。

トーマス・グラバーと栃木県奥日光の関係性

『奥日光地域の河川は、華厳滝や竜頭の滝によって隔てられており魚が往来することができず、かつての湯川には釣りの標的となるような魚がまったく生息していなかったが、1902年(明治35年)5月2日、交易商人として知られるトーマス・グラバーの企画により、イギリス領事館員ハロルド・パーレットの立ち合いの元、コロラド州から取り寄せた約25,000粒の卵から孵化したカワマスの稚魚が湯川流域に放流されている。この時の稚魚は同年9月28日に足尾台風が流域一帯に及ぼした深刻な災害によって壊滅してしまったものの、1904年(明治37年)にも放流が試みられて繁殖が確認され、後世になっても放流が続けられており、日本では珍しいカワマスの釣り場として釣り人に親しまれている。』

ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋

かつての湯川には釣りの対象となる魚はいなかったとあるが、カワマスが湯川に放流されるより以前に地元の有志らによってさまざまな鱒類を放流したという記録が残っている。

本来の意味とは違うかもしれないが、『水清ければ魚棲まず』という故事ことわざがある。湯川は地形的な条件もあったのであろうが、水の生き物でさえも近寄りがたい崇高な聖域だったのかもしれない。

グラバーはなぜカワマスと奥日光を選んだか?

グラバーの決心

死の商人時代でもあったグラバー商会の倒産から約十年。グラバーは三菱社の社員となる。三菱財閥の創業者で初代総帥の岩崎弥太郎が亡くなり、二代目社長に就任した弟・弥之助のもとで三菱社は大きく生まれ変わろうとしていた。

この時グラバーにも転機が訪れる。三菱本社がある東京へ勤務を命じられ外国人幹部社員として終生岩崎家に忠誠をつくすことになる。

その後グラバーはキリンビールの前身となった会社を創業。また当時としては破格ともいえる勲二等旭日章に叙せられるほどに名声を築き上げた。

しかしである。

波乱に満ちた人生を送ってきたにせよ、晩年を迎える事を考えたときに、日本で築き上げた名声は所詮この国のなかでしか通用しない。祖国スコットランドに帰ってみたところで日本の一企業社員であったとしか評価はされまい。

ならば故郷への想いは断ち切り、日本の国に骨を埋めよう。と、グラバーは決心する。

グラバーと奥日光

グラバーが東京での生活を始めたころ、在日外国人の社交界で『避暑地日光』の評判を耳にするようになる。その頃、中禅寺湖では漁業組合が誕生したことや初のニジマスの放流、鉄道の延線と日光町の有志などにより新しい運動が開始されていた。

そして思い出し決心するのである。

故郷のアバディーンで過ごしたころのように、もう一度なんとしても鱒釣りがしたい。よし、鱒を釣りに日光へいこう、と。

グラバーからの贈り物カワマス

グラバーにとって晩年を過ごす事になった奥日光中禅寺。日本と英国の友好親善のために、また中禅寺湖畔の発展のために何かできないものかと考えた。

ヨーロッパ大陸からは困難だがアメリカ大陸に日本のイワナによく似た鱒、ブルックトラウトであれば可能ではないかと思い、持ち前の行動力を発揮して輸入を試みたのである。

いよいよ日本国内にカワマスを放流する

明治35年2月14日、アメリカ合衆国のシーリールコロ商会から購入した、コロラド州産のブルックトラウト(カワマス)卵約2万5000粒が太平洋を越えて日本に到着。

当時英国領事館に勤めていたパーレットは職務上の特権や英国公使館との関係を利用して面倒な輸入の手続きをスムーズに処理していった。

やがて卵の到着から二週間後に2万5000粒の卵のうち、2万尾の孵化に成功。そして奥日光に遅い春が訪れた五月二日、ついに漁業組合有志の手で1万5000尾のカワマスの稚魚が、戦場ヶ原を流れる湯川に放流されたのである。

パーレットマスの名の由来

作業現場にはグラバーの代理人としてパーレットが立ち会い、藤三郎や久治らと協力しながら、打ち合わせ通りの手際よく作業を進めていった。

このため、漁業組合員や噂話を聞いた地元民のなかには、この放流の事業主がパーレットだと思い込んでしまう物がいた。グラバーの仕組んだ事業であることを正しく理解していたのは、大島藤三郎と息子の久治など、グラバーにごく親しい人間に限られていたのである。

この時、日本で初めてカワマス(ブルックトラウト)が放流されたわけだが、四か月後、日光を襲った記録的暴風雨によってすべて水の泡となってしまった。

二年後、落ち着きを戻した湯川に再びカワマスを放流する事となる。それから繁殖するまで三年の月日が流れた。

ブルックトラウトの『ブルック』には『小川』という意味のほかに、『耐え忍ぶ』という意味もこめられているらしい。

まさに故国を離れて、人生の栄光と辛酸を幾度もなめさせられ、それに耐えてきたグラバーにふさわしい鱒の名前ではなかろうか。

昭和31年(1956年)パーレットの息子ランジ・M・パーレットによって中禅寺湖の水産庁養殖研究所日光支所に川鱒放流記念碑を建てる事になる。父パーレット卿が日本水産業の発展に貢献した事の記念の為に。

これが大きな誤認の基となり、カワマスがパーレットマスと呼ばれるようになる。

後に中禅寺湖漁業組合を創立し、親子二代にわたって組合総代を務め、さらにカワマス放流事業の関係者として一部始終を体験した大島藤三郎と息子久治が書き残した古文書によって、経費の負担を含め、放流事業の発案者はグラバー本人であると明かされることになるが、近年まではパーレットのものとの誤認があった。

 

パーレットとグラバーとの関係性

ハロルド・パーレットという人物とは

『英国公使館付参事官パーレット』ことハロルド・パーレットは明治二十三年、二十一歳の時に、駐在英国公使館付通訳見習生として来日した。カワマスを放流した明治三十二年から三十七年当時の身分は、東京領事館の通訳助手にすぎない。その後長崎領事館書記官、函館副領事、大正八年に在日英国公使館領事館として東京に在住する。

一方のこの時のグラバーというと

当時は三菱社および岩崎家の最高顧問を務めていた。

明治三十五年当時、パーレットの年齢は三十三歳。グラバーは六十四歳。社会的地位、経済力、年齢差、これらのどこをとっても湯川にカワマスを放流できたのはグラバーの方である。

グラバーの息子 倉場富三郎とはどのような人物か?

倉場富三郎

倉場富三郎

トーマス・グラバーを語る上でどうしても欠かせないのは息子である倉場富三郎の存在である。父スコットランド人と日本人の母を持つ混血ではあるが、れっきとした日本生まれの日本人だ。

冒頭で紹介した『グラバー図譜』を生涯二十数年に渡り作成したのがこの人物だ。

父トーマスの功績と比較されがちだが、富三郎もまた長崎の商工業界、文化に寄与した功績は計り知れない。日本におけるトロール漁の開拓者であり、遠洋漁業の創始者で水産県長崎第一の功労者と賞されている。

精巧な魚譜を作成する富三郎

トロール漁船の操業が始まったころ、底引き網を使う漁法であったため、多種多様な魚が水揚げされることに富三郎は眼を付けた。当時の日本には本格的な魚類図鑑が乏しかったこともその背中を押したのだろう。

大学時代、動物のデッサンを学んでいた富三郎は、魚譜製作の心得があった。1912年(明治45年)に始まり、1936年(昭和11年)に完成するまで、24年の年月が費やされている。全34巻、823枚の図譜からなり、関わった画家は5人に及ぶ。それは私財をつぎ込んだライフワークであったと言っていい。

富三郎の残した魚譜、通称『グラバー図譜』は2005年に『グラバー魚譜200選』(長崎文献社)として出版され近年、再評価されている。また、長崎市内さまざまな所で複写が展示されて、富三郎の功績であったことが、今ではきちんと認識されるようになった。

富三郎の死

長崎の原爆投下から六日後、終戦の玉音放送が流れた。その時には妻であった同じ混血のワカとも死に別れ、子供もいない富三郎は終戦後も心穏やかではなかった。

国籍は正真正銘の日本人であり、日本以外に行く当てもなく、しかし、父の血を引いた西欧的な容貌は日本国籍とは言えスパイ嫌疑をかけられるには充分であっただろう。

当時、グラバー邸には長崎造船所総務部長、深山茂樹の一家が引っ越してきていた。元の家主である富三郎にグラバー邸での同居を勧められる。

突然の死はその直後であった。

8月26日早朝、富三郎は洗濯物の紐を首に巻き付け外を覗き込むような姿勢で死んでいた。

グラバー家のその後

富三郎の遺言書

富三郎は太平洋戦争開戦後の一年後、遺言書を書き残していた。

遺言には、富三郎夫妻の死亡した後は相続人を定めず、富三郎一代で倉場家を絶家にする事。『グラバー図譜』の処分を後の大蔵大臣、渋沢敬三に委ねる事。戦後復興資金として長崎市に10万円を寄付すること等が書かれていた。

自ら命を絶つ事でしか、この日本で生きた証を残せなかった事もあるだろう。精神を蝕まれながらも、生きながらえたとしたら、『グラバー図譜』なるものは闇に葬られ、逆にこの世に存在していなかったのかもしれない。

今も残るグラバー邸とグラバー園

戦後、グラバー邸は進駐軍によって接収される。その後、再び三菱に買い戻され、1957(昭和31)年、三菱長崎造船所の前身である長崎製鉄所の設立百周年の記念として、長崎市に寄贈された。

1961年、日本最古の木造洋風建築として重要文化財に指定。改修調査を経て、長崎市が運営する『グラバー園』となり、現在に至っている。

そして世界遺産登録

2015年7月5日、「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産の一つとして『旧グラバー邸』が世界遺産への登録が決定した。

現在では長崎市のもっとも有名な観光スポットである。

グラバーガーデン

グラバー園(世界遺産 旧グラバー邸)

カワマスが西別川に移入されるまで

先にも記したが、日本に初めて持ち込まれたカワマスの卵。明治35年(1902年)奥日光の湯川に放流されたわけだが、北海道の西別川への導入のいきさつは実は良く解っていない、とされてきた。

スプリングクリーク

西別川水系上流域

昭和9年4月から昭和12年10月まで北海道鮭鱒孵化場虹別支場に在勤していた蒲原八郎氏によると当時は西別川にカワマスはいないようだと確認されている。

ただ、昭和10~11年の間、養魚池にてカワマスの飼育をおこなった事実があり、現在西別川に棲息しているカワマスの祖先は当時の飼育魚ではないかという事らしい。

ニジマス同様に米国から日光へ、また千歳へと移植された事実はあるものの虹別へ移された記録は残念ながら残されていない。結局食用として北海道に移入されては見たものの、虹別では何の目的で飼育されていたのかは今となっては謎のままなのである。

しかし、その軌跡となるヒントをわずかながら見つける事が出来た。

とある人物から借りた一冊の書物にその記述がある。

おそらく非売品の書物。発行元は、北海道サケ・マス友の会となっている。

その中の年表の一部に

虹別事業場 『昭和10年(1935)西別川水源付近にカワマス卵移入(非公式)。』

昭和59年3月刊行『根室の鮭鱒ーふ化事業の発展ー』

とある。

たった一行のこの文言に、ずいぶん救われる思いがするのは私だけであろうか?非公式であるにせよ、間違いなくそこにはカワマスの存在を確認することが出来たのである。

多くの外来生物がそうであるように、西別川に棲息する外来魚ニジマス、カワマスについても明確な移入、放流に関する記述は見つからなかった。かと言って一部の人間が意図的に放流しただけでは、ここまで繁殖はしなかったであろう。私が思うに大雨や洪水により養魚池から逃げ出したのが始まりではないかと思う。

私が住む中標津町を流れる標津川についてもニジマスが良く釣れる川としては有名である。同じように標津川の水系についても上流域にはニジマスの養殖場が過去にも点在していた事実がある。

北海道の大自然に北米産の魚種が適応するには十分な条件を満たしていたのであろう。

北海道のカワマスが今も純潔で生き続けているという事実は、まさにグラバー氏の遺志そのものが現代でも生き続けている事に相違ない。

カワマスに対する新たな疑問とは何か?

カワマスに対する当初の疑問については、ほぼ解消出来たのではないかと思う。特に奥日光への移入の背景には、ここでは書き記すことが出来ないくらいの壮大なドラマがあった事だろう。

最大の疑問点であった西別川水系への移入については、明確な時期と目的は残念ながら見つけ出すことは出来なかった。

しかし、それはそれで謎めいておもしろい。そして新たな疑問が生まれる。

カワマスの現在に生き続ける意味とは何か?

環境保全を考えたときに在来種の存在だけでは説得力に欠け、場合によっては、外来の生物等による希少環境のアピールこそが自然環境の保全に役立てているのかもしれない。

最近は特に在来種の保護という事が浸透し、外来種は悪とされることが目につくようになった。しかし何でもかんでも外来種が悪いのだろうか。環境の事を考えず移入させてしまった事が結果的に悪影響を及ぼしたというだけで、そこに棲む生命そのものは懸命に生きている、ただそれだけなのではないかと私は思う。

また、外来種の移入が結果的にすべて悪影響が出るわけではない。場合によっては自然環境を人の手で守れることになったケースもあるのではないかと推測できる。もちろん移入された外来種の為にその区域に生息する在来種に影響が出てしまった事もあるだろうが、希少環境を守る事に結果的に役立った種もあるだろうと考える。今回取上げた日光のカワマスが実にそうであろうと推測する。

守られるべき物とそうで無い物の差はいったい何であろうか。もちろん人にとって都合が良いかどうかという事も言えるであろうが、それだけではない。世界的に見ても希少であるかどうかという事も重要である。じゃあ世界的に見て希少であることの証明はどうする?誰がする?

共存することの意義

他による影響こそが、そこに生きる者それぞれを強くしていくことになりはしないだろうか?広い世界の中で力強く生きていかなければいけないのはすべての生命に言える事で、自分自身だけは別物、安全と考えるのはおこがましい事実。

明治維新と言うものは日本にとっては必然の事柄だったように思う。

グラバー氏によって繁栄できた事柄もあるでしょうが、その裏でまた命を落とした者がいることも事実。長い歴史の中で見えてくるであろう結論がいかなる結果となろうとも、我々は細くとも強く長く生き続けていかなければならないと思う。

グラバー父子と現在に生きるカワマスに思う事

父トーマスと息子の富三郎の関係性を陽と陰、光と影、みたいな表現をする方もいるかもしれないが、私は特に息子である富三郎に共感するべきところが大きい。もっとも富三郎の事を陰や影とも思ってはいない。

父であるトーマスの人間性については、その風貌や性格から豪快、豪傑といった印象を受けてはいるが、一方息子である富三郎はというと、人から好かれやすいというのは共通するものの性格としては優しく、おとなしいと言う印象を私は受けている。

そのおとなしく、優しい富三郎は何故に自ら命を絶ったのか、絶たねばならなかったのかが、今回私が色々と調べて行くうちに最も関心を惹かれた部分でもある。

今も尚、観光資源として有効利用されているカワマスを父であるトーマスと例えるのなら、北海道で人知れず生きながらえているカワマスを富三郎と見てしまう私は、偏見の塊であろうか。

北海道では要注意外来生物として生きているカワマスと第二次世界大戦当時の富三郎が受けたであろう迫害は、どうしても切って考える事が出来ないのである。外来と混血という違いを除けば、どちらも日本で生まれ育った者同士。日本に移入後一世紀以上、道東に移入後半世紀は経とうかという時代に、在来では無いにしろ日本のものとして受け入れる事は出来ないのであろうか?

想像してみてほしい、北海道に生息するカワマスのこれからを。

自らの種を増やす事も出来ず、細々と生きて行くしかなく、いずれ死に絶えてしまうであろう未来しか見えてこない。人によるものか災害によるものかは別として、自然環境の変化があれば簡単に死に絶えてしまうであろう未来。

我々に出来る事は見守る事しか出来ないのであろうか。自然環境によって淘汰されてしまうのはやむをえないが、人の手によって淘汰されてしまう事の無いように切に願う。

あとがき

人の目線から見て人間と他の生物、どちらが優先されるべき命か、という事は比べるべくもなく人間が優先される。それは私も当然だと思う。しかし、地球上の生物全体から考えてみると人とは一体なんであろうか?そんな疑問が後に残る結末になってしまった感は否めない。

トーマス・グラバー氏を通して現在も各地で棲息しているカワマスから過去の明治維新・坂本龍馬までをつなげて考えてしまう私の妄想力は、自分でいうのも何だが、現代の釣り人の思考からは十分に常軌を逸していると言えるのではないだろうか。

まったくの変人だと自分でもつくづく思う

さて、前半の大半を占める説明文には端折ってしまったために伝わりにくい部分もあったかと思うが、素人が書き記すものとして勘弁願いたい。

当初私はカワマスの移入について大きな誤解をしていた。

武器商人である欧米人が幕末の混乱期に、艦船や武器弾薬でしこたま稼いだ資金で、道楽である鱒釣りを日光で始めた。という印象を持っていたが、調べていくうちに、それは全くの誤解であった事に気づく。

そしてトーマス・グラバーの人間的奥深さと人脈の幅広さ、行動力に、私自身には無い憧れに近い感情を抱く事になる。

私も、さまざまな書物や情報を調べ上げて行くうちに、とんでもなく奥深い出来事に首を突っ込んでしまったと思い知らされた。

しかし、道東のカワマスに魅了された一人の釣り人として、また、長崎の空気を身をもって感じたときに、これらの事をなんとしても一つの記事に仕上げたいと思ったのも事実である。

カワマス(ブルックトラウト)水中動画

参考書籍 日光鱒釣紳士物語

参考書物としては著者 福田和美『日光鱒釣紳士物語』の存在がものすごく大きい。現在では手に入れる事が困難な書物であるが、興味のある方はぜひ一度読んでみて欲しい。今回の記事には書かれていない、フライフィッシングの発祥に関わる内容も読み解く事が出来る。

日光鱒釣紳士物語

『日光鱒釣紳士物語』

私が知る限り釣り本の中では最大級に意味のある内容となっている。この書物が私の手元に存在する事もまた一つの奇跡なのかもしれない。カワマス(ブルックトラウト)の日本への移住時期や、その裏にある時代背景が克明に記載されている。

参考文献


著者 山口由美 『長崎グラバー邸 父子二代』
著者 福田和美 『日光鱒釣紳士物語』
著者 加治将一 『龍馬の黒幕』

下田和孝 『北海道における外来魚問題』
蒲原八郎 『西別川のカワマス』
真山 紘 『西別川に生息するサケ科魚類』

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コメント一覧
  1. 釣り師 さん。どうも。こんにちは
    ウミンチュ です。

    長作の記事読み終わりましたよ(本当)
    当方は、沖縄の八重山郡出身なため、(高校の時は、確か前にも軽く触れてますが高校は、北海道です)中学の時の修学旅行で、九州にいき、グラバー園も勿論観光してきました。しかしその頃はトーマスグラバーさんがカワマスの移入にたずさわったとはしらず、私も進駐?と言いますか日本に入ってきた外国人たちの娯楽の一環としての外来鱒類の移入と思っておりました。

    このような経緯があったのですね。私も釣りを覚えたときから、鮭鱒属にはとても興味があり、現在に至るので、今回の記事はとても読み応えがありました。
    外来種の問題は良く語られておりますが、こちらも私も悪人?的な?扱いで排除されるのでなく、在来種、外来種が環境を悪化させずに共存できる環境を切に願っております。

    • ウミンチュさん、こんにちは。
      最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

      長文と言ってもほとんど説明文なのですが、まとめるまで3か月かかりました。(;^ω^)
      自らの体験がまったく予想だにしない所で、一つの線で繋がる感覚がなんとも不思議で、ブログとは言え書かずにはいられませんでした。
      結果、情報の裏取りに3か月要した次第です。
      その後の情報収集で、少し内容は書き直さなければならない箇所もあります。
      書き換えはまたそのうちに・・・
      在来種と外来種については、道徳的にもう少し議論する場所があってもいいのではないかと思う今日この頃です。
      じゃあ、釣りは魚に対する悪ではないのか?という議論もあるのかと・・・

  2. 通りすがりの者さんよりコメントをいただきましたので、一部抜粋内容を掲載したいと思います。
     
    題名 西別川の川鱒

    メッセージ本文:一部抜粋

     現在68歳の者です。中学生のころ、西別川の川鱒について聞いた話しです。(史料も無く伝聞で申し訳ないのですが)
     川鱒は、孵化場の人が趣味的に放流していたものが逃げ出して生息するようになったという話を聞きました。(おっしゃるとおりの話です。)
     当時は、この川で釣りをすると必ず川鱒が何匹か釣れました。西別川には何度も行ったですが、中学生の頃以降行っていません。地元の方でしょうから知っておられるかもしれませんが、熱心に調べられたようなので参考までにお知らせしたいと思いましてメッセージ差し上げました。失礼いたしました。
     
    通りすがりの者より

    • 通りすがりの者さん、コメントありがとうございました。また、貴重な情報ありがとうございます。
      当時をご存知の方が、私の周りには殆ど存在しておりませんので、そのような情報は本当にありがたいです。
      ご連絡先の記載がありませんでしたので、誠に勝手ながら一部とは言え、コメントを掲載させていた抱いたことをお詫び申し上げます。他にも何かご存知でしたら、さらにコメントを頂けますとありがたいです。よろしくお願いいたします。

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